エル・カンターレ神曲2020

あいちトリエンナーレと
神曲展
 
「あいちトリエンナーレ2019」が終わった。

地元あいちで開催されている
大きな芸術の
お祭りであるのだが、
世間を大いに騒がせた。

その内容については、
それぞれの考えがあるだろう。
それを「美しい」「必要だ」と感じる人も中にはいるが、
「ひどい」「やめてくれ」という声は多かった。

背景には、
日本の戦争に関する
議論があるとは思うが、

同時に「現代美術」に対する
疑問を新たにした人も多かったのではないだろうか。


【画像】神曲2010 のチラシ 絵の作者 小川 淳 2008年
招待状をもらっても・・・

私自身は
愛知県に住む美術家の
一人として
「あいちトリエンナーレ
2019」への招待状を
もらってはいたが
気が重く行けなかった。

「神曲2020」の話なのに、
あいちトリエンナーレの話になってしまったが、
この二つの展覧会は
ちょっと
つながっている。


【写真】「あいちトリエンナーレ2019」の招待状
ダンテの神曲を
描き直す


「神曲展」は
”ダンテの神曲を描き直す”
ために
「神曲展2008」として
名古屋のアートスペースA-1にて
で始まった。

2008年にスタートしたのは、
その100年前に
マルセル・デュシャンという
現代芸術家が

「絵画は終わった」

と言ったからだ。
このマルセル・デュシャンが
「あいちトリエンナーレ」と
関係がある。


【画像】神曲2008のチラシ デザイン 井村和寛  2008
「神曲展」の「あいちトリエンナーレ2010」
との共催は却下される

2010年に
「あいちトリエン
ナーレ2010」の開催を知った時に、
「神曲2010展」も
いっしょに
共催にすることは
出来ないか、
と考え
トリエンナーレ実行委員会に
「外部企画」として申請した。

しかし却下された。

全く方向性が違う展覧会だから
当たり前のことではある。


【画像】神曲2010のチラシ 絵の作者は中村裕二氏 2010年
暴走の予兆はすでにあった
「あいちトリエンナーレ2010」


その時、第一回目の
「あいちトリエンナーレ2010」の
芸術監督を勤めたのは建畠晢氏だ。

建畠氏は当時、大阪の
国立国際美術館の館長をしていた。
2004年、万博会場にあった国立国際美術館が
大阪の中之島に移転した。
その時、館長だった建畠氏は、
オープニングの展覧会として
「マルセル・デュシャン」を
選んた。


この
マルセル・デュシャン
という芸術家が、
今回の「あいちトリエンナーレの
事件の鍵を握っている。

マルセル・デュシャンは
「現代美術の父」とも
「20世紀最大の芸術家」とも
言われているが
問題もある。


【写真】「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展  国立国際美術館 再オープニング展 2004

まず、彼の代表作が
便器を使った作品であることだ。
トイレで使う陶器の
白いやつだ。
これが彼の代表作だ。
(写真上)

また、
モナ・リザに髭を描いたり
また、ひげを剃ったりと
要は「モナ・リザに象徴される西洋絵画全体」を
バカにしている。
僕たちが小学生の時に
教科書で偉人の顔に髭を描くような遊びを
芸術としてやった。

また
女装したり、
覗き穴から、裸の女性を覗くような
作品を作るなど
やや
倒錯した側面も持っている。

彼は
絵画や彫刻は
基本的に
すべて否定している。

「このマルセル・デュシャンこそが
20世紀芸術を理解するうえで
重要な人である」

と建畠氏は考えたと思うが、
それが芸術を破壊する
時限爆弾を
仕掛けることにもなった。
マルセル・デュシャンの自作自演の炎上商法


”普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をし、『泉』というタイトルを付けた作品(1917年制作)は、物議をかもした。この作品は、デュシャン自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品されたものの、委員会の議論の末、展示されることはなかった。デュシャンは自分が出品者であることを伏せたまま、
展示委員の立場から抗議の評論文を新聞に発表し、委員を辞任した。”


(Wikipedia より)


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人が拒絶反応を示すことが
分かっている作品を
わざと展示して騒ぎを起こし、
それを使って世間の注目を集める。

これは「自作自演の炎上商法」の
はしりだろう。

マルセル・デュシャンが
ニューヨークでそれをやった時に
うまく行ったのには、
時代背景もある。

彼にはアメリカ人のパトロンがおり、
”フランス人”であるマルセル・デュシャンが
アメリカでモナ・リザを笑いものにすることで、
ヨーロッパに対して、
文化的な劣等感を持つアメリカ人を喜ばせた
という事はあっただろう。

マルセル・デュシャンは
パリでは全く認められなかったが、
ニューヨークでは受け入れられた。

彼の先を行って成功していたパブロ・ピカソに
憧れつつも嫉妬する心はあっただろう。

マルセル・デュシャンは、そこで

「ヨーロッパ絵画そのものを否定する」

ことで「反芸術」の旗手となった。

その後、世界の美術の中心は
ヨーロッパからアメリカに
移って行く。

【画像】マルセル・デュシャン 「泉」 1917年 ニューヨーク
ご本尊は「便器」


この「泉」という便器の形も、
よく見るとモナ・リザのシルエットに
なっていることが分かる。

「泉」を見る人、特に男性は
その便器の前に立つと
モナ・リザに対して、
放尿する立ち位置になる。

これも
小学生レベル。
いや、少し作品の構造が複雑だから
中学生レベルか。

むしろ知性を
このような破壊的なことに使うことが
20世紀的なのかも知れない。

彼が破壊し、否定したのは
モナ・リザの奥にある
宗教性であり、
イエス・キリスト
である。

マルセル・デュシャンは、
このようにして、既成の芸術や
良識に対する激しい攻撃を通して
アメリカや世界において
「現代美術の父」
としての地位を
勝ち得て行った。

それは「便器」をご本尊とする
「現代美術」という名の
新しい「宗教芸術」の立ち上げだった。

「現代美術」を信ずる人は、
マルセル・デュシャン教の
信者でもあるのだ。


【画像】マルセル・デュシャン『L.H.O.O.Q』
(「Elle a chaud au cul「彼女はお尻が熱い」) 1919年
コウモリの住む洞窟


そのマルセル・デュシャンの
時限爆弾が爆発したのが、
「あいちトリエンナーレ2019」
における「表現の不自由展」事件だった。

これは突然起きたことではなく
2010年に建畠氏を
「あいちトリエンナーレ」の
芸術監督として
招聘した時から
予想されていたと言える。

このあとに訪れた
コロナウィルスのパンデミック。
全世界が一斉に
急ブレーキを掛けられたような事態に
陥った。

東京オリンピックもだが、
「あいちトリエンナーレ」も
次回あるのかどうか。

中国の洞窟に住む
コウモリが持つウィルスが
何らかの不可思議なプロセスを経て
世界中に蔓延して起きた
「コロナパンデミック」。

美術の中心を流れる
「現代美術」の中にも
危険な時限爆弾があり、
その中には
感染すると危ない危険なウィルスが
仕込まれている。


【画像】マルセル・デュシャン遺作 Étant donnés 1946年 - 1966年 
所蔵フィラデルフィア美術館 (アメリカ)
「現代美術」の毒性ウィルス

この少女が
政治的に利用されていることが
痛々しく感じる。

「あいちトリエンナーレ」の事件では、
日韓問題や、日本の戦争責任のような
政治的な問題が取りざたされたが、
それと並行して
マルセル・デュシャンのような
「反芸術」の性格をもつ
「現代美術」の問題も
同時にあることを指摘する必要がある。

そこに

反芸術
反宗教
反絵画彫刻

を良しとし、崇拝している
「現代美術」という名の
「新しい宗教芸術」

があることを
美術関係者や美術の学生さん
政治家、お役所の担当者は
知っておく必要があるだろう。

特に若い美大生は
このマルセル・デュシャンの
「反芸術ウィルス」
に感染しやすいし
先生方の多くはすでに
感染しているだろう。

これに感染すると
絵が描けなくなり、
自己の否定になって行くので
気の毒でならない。

そこに潜む毒性は、
ふつうほとんど分からくて
「『現代美術』が分からない自分はだめなのではないか?」
と思ってしまうところを
付けこまれる。


【画像】「あいちトリエンナーレ2019」 表現の不自由展より  2019年
さらば便器的「現代美術」

芸術だからと言って
何でも高尚なわけではない。

便器をご本尊とする美術
に対しては、
それが「20世紀最大」
「現代芸術の父」
と言われようが、
拒否する勇気が必要だ。

さらば便器的「現代美術」。

マルセル・デュシャンを
評価する建畠氏を
「あいちトリエンナーレ2010」の
芸術監督にしたことで
「あいちトリエンナーレ」は炎上した。

彼が選んだのが
朝日新聞論壇委員の
津田大介氏。

その津田氏が今回、
世間があっと驚くような
展示企画をやり、それが炎上したのは

起きるべくして起きたこと
だと言える。

【画像】焼かれるべき絵 「あいちトリエンナーレ2019」表現の不自由展より
芸術改革が必要な時

このような芸術はもう終わりにした方が良いと思う。

炎上商法で、入場者数が
過去最高になったと喜んでいては
いけない。

いい展覧会を企画して
お客さんに来てもらおうと努力している
心ある学芸員は
泣きたい気持ちだろう。

だが
そもそも
まだ評価が定まってない
現存する芸術家の活動に対して
公務員の方々が
「どの芸術家が良い」
とか
「よくない」
とか選んだり、評価できるのだろうか?

今回の
「あいちトリエンナーレ2019」
の問題でも、

「やりたいなら自分のお金でやれ」
「税金を使って、特定の偏った政治的なメッセージを発信するな」

という意見は多かった。

「表現の自由」は尊重されるべきだが
税金を使って表現行為をやる場合は
バランス感覚や妥当性が求められる。

ナポレオン3世時代の
パリでも、
サロンに落ちた画家の問題で
喧々諤々の騒動になった。

そこで落選した画家たちの
展覧会が開かれ、
それはまた世間の嘲笑を浴びたが、
そこから「印象派」の画家が
生まれた
という歴史もある。

次の時代を作っていくのは、
その時代では正当な評価が得られず
馬鹿にされたり
笑われていたりする
ものであることも多い。


【画像】サロンに落選し「落選展」で復活した エドゥアール・マネの『草上の昼食』 展示は1863年
「太陽の芸術」
 
「神曲展」は、
「神曲2008」として
名古屋のアートスペースA-1で
始まった。

100年前の1908年
マルセル・デュシャンは
「絵画は終わった」
と言ったが
「絵画は終わってない」。

それを宣言するために
100年後の2008年
「神曲展」を始めた。

それは「現代美術」の終わりをも示唆する。

コロナ以降、「現代」という時代は
もう過去のものになりつつある気がしている。

コロナとは
太陽の外側の
高温のガス帯のことだが

これからの芸術は
「太陽の芸術」
だと思う。


太陽は
すべての
生き物を等しく照らし
成長させていく。

芸術も
地球に住む
すべての人々が
政治や宗教の違いを超え
地球全体の生命の幸せを実現する
ものでなければならない。



【画像】至高神エル・カンターレを表現している天井画の作品
個人のお宅に天井画 へ

【写真】T邸天井画(大府市) 小川 淳

2019/10/18